学長ブログ

6月の学長ブログ

 6月6日は、降りしきる雨の中、「もりや市民大学友の会」主催の永田町ウォーキングデーでした。総勢18名の参加者は、賑やかに千代田線赤坂駅に降りたち、まず向かったのは日枝神社。きれいに整備された伝統ある神社には、翌日から山王祭が始まるというので、豪華な神輿などが並んでいました。お参りを済ませ、ビル街を歩いて国会の議員会館到着、議員秘書さんと待ち合わせて議員食堂へ。カツカレーやかつ丼を食べた後、国会議事堂に入り、参院本会議場などの見学でした。引率して説明してくれたのは、国会議事堂職員のようですが、これが語り上手で、まるで渋谷のDJポリスのよう。いろいろと笑いを取りながら、飽きさせないよう、また騒がないように、上手に案内してくれました。

 続いて、いよいよ首相官邸です。いつもテレビに出てくる首相官邸に入りますと、建物は天然の石と木材でつくられていて、なかなか快適でした。ガラス越しに見える大きな部屋では、大勢の人がいてカメラも並び、何やら取材している様子。そして、組閣の時に大臣が並んで写真を撮る階段に、我々も並んで記念写真を撮りました。次に、いつも菅官房長官が記者会見する部屋に入り、参加者は1人ずつ演壇の後ろに立ち、記者の質問に答えている気持ちに浸りました。「ウソをついてはいかんぞ」と心に誓いながら・・・。

 当日はあいにくの雨模様でしたが、老若男女、修学旅行の高校生もまじって、大勢の見学者が出入りしていたのは驚きでした。国会や首相官邸に踏み込んだのは初めてですが、一つ気づいたことがあります。それは、厳重なセキュリティーチェックは当然ありましたが、全体として「こらこら、近づいてはいかん!」といったような禁止、監視が強いということはなく、むしろ、見学者は国民であって国民はここの主人公である、ここに来るのは当然だ、と思えたことです。守谷からわいわい訪れた18名が、厳重な警戒のもとで邪魔をしないようにビクビクしながら見学したのではなく、国民として丁重に扱われた、という思いで見学できたことは、幸いでした。

 こうして、日本の民主主義の成熟度を感じ取り、なるほど一度は来てみるものだな、と思う1日が無事に終了した次第です。友の会の柗本会長、紹介議員である松下参議院議員と秘書の方、大変お世話になり、ありがとうございました。

5月の学長ブログ

 毎年、この時期になると市民大学の自己評価を行います。もりや市民大学の運営委員全員が、この1年を振り返り、事業目標は達成されたか、成果は期待通りであったかなど、多くの項目について自己評価点をつけます。評価は、5:十分に達成した 4:達成した 3:概ね達成した 2:あまり達成できなかった 1:達成できなかった という5段階評価です。

 よくよく考えてみると、もりや市民大学もオール5という訳に行かず、いくつかの項目で3をつけざるを得ないものがありました。頑張ってみたけれど目標通りには達成できない課題は、人生にも日常生活にも決して少なくありません。そして、自己評価は難しいと思いました。なぜなら、これは主観的にならざるを得ない行為であり、自分を客観的に評価して点数をつけることには迷いが生じるからです。この自己評価という行動原理は、比較的最近日本に定着した文化です。かつて、評価というのは他者や管理者、指導者が行うものであり、より客観的であることが要求されていました。しかし、1991年に大学設置基準の改正があり、全国の大学で自己点検・評価を努力義務とすることが決定されて以降、多くの組織や団体で自己評価が行われるようになりました。当時現役の大学教員だった私は、自己評価のやり方に随分戸惑い、労力と時間を注いだことを覚えています。

 私がある大学で連続講義を行っていたとき、「あなたは、この講義を受講した自分に何点をつけますか?理由を述べて採点しなさい」というレポート課題を与えました。学生に自己評価をさせたのです。満点を100点としました。その結果は興味深いものでした。受講生の自己評価点が、私自身の評価点数と近いものが多かったのですが、中には辛目の70点をつけた学生もいました。その学生は出席率も良く、講義を聞いて「研究してみたい面白いテーマが見つかった」と述べています。講義する側から言えば、こういう反応こそが一番楽しいのですが、学生側からは、自分の目標とするところに比較して足りないところが多すぎた、と反省し、自らに辛めの点数を与えたようです。この学生に関しては、激励の意味を込めてもう少し高い点をつけました。

 そんなことで、市民大学の自己評価も間もなく集計が終わります。結果の数値よりも、自己評価を考えるプロセスにより大きな意味と意義があるような気がします。良い点を取ることに汲々とするより、自分になぜ何点をつけるかという思索に意味がある、ということだと思います。

4月の学長ブログ

  急に、表彰される機会が増えました。地盤工学会という学会に安くはない学会費を30年以上払い続けてきたので、その経済的貢献度が大きいから、4月中に表彰して下さるそうです。何でも長くやっていると褒められる、ということです。5月には、日本地球惑星科学連合という巨大学会から「土壌物理学および環境地水学における,時空間変動する土壌中の移動現象の解明と理論化に関する顕著な功績により」という理由でフェローの称号が与えられます。表彰してくれる学会に文句をつける筋合いはありませんが、日本と地球と惑星という3つを繋げて命名する学会は不思議な感じがします。学の境界線がどこにあるのかな、と思うほど守備範囲が広いです。

 ところで、フェローを日本語に訳すと何になるのでしょう?ネット検索しても、フェローはフェローでしょ、とばかりにそのままカタカナで書いてあります。無理に日本語にすると、特別研究員、大学理事、仲間、同僚とかの意になり、何だか変です。奨学金をもらう研究員もフェローですが、今回はそう言った実利面のご褒美はなく、名誉だけを授ける、といった趣旨のようです。誠にありがたいことです。こだわるようですが、フェローの適切な日本語訳はありませんか?

 賞を頂くのは嬉しいものです。何よりも推薦してくれる人がいてこそ受賞が決まるのです。自己推薦というのはなかなか難しく、多くの場合、他者からの推薦によって受賞の運びとなります。その意味では、推薦されるような立派な行いをしました、という面が一番大切かも知れません。

 そういえば、守谷市でも、いやいや市民大学の運営委員や受講生にも、いろいろな賞を受賞されている方々がおられます。スポーツ大会の入賞や優勝も素晴らしい受賞です。ゴルフコンペの優勝などは、誰かに自慢せずにはいられません。賞を頂く、表彰される、こういう体験は、子供でいえば「褒めて育てる」ことに繋がります。年長者の場合は「褒めて長生きさせる」のが効用でしょうか。

3月の学長ブログ

 私の学術的な専門分野は「土壌物理学」です。だから、土壌に関連するニュースやら評論やら小説やらが時々注目されるのが楽しみです。

 最近では、アンディ・ウィアーという著者が書いた「アルテミス」(邦訳、「火星の人」2015年)が話題となり、「オデッセイ」という名前の映画として日本でも上映されました。この本は、火星に1人取り残された主人公が、基地に残された31日分の食料で、如何にして救助隊が来るまでの長期間を生き延びるか、という宇宙開発新時代のサバイバルSFです。そのカギとなるのが土壌でした。火星の土を基地施設内に持ち込んで、地球から積み込んできたジャガイモを植え付け、栽培して増やして食料生産を行おうというシナリオです。この本では、全体のドラマチックな展開を損なうことなく、土壌が詳細に分かり易く記述されていて、小説として大いに楽しむことができました。全世界で驚異的なベストセラーだったそうです。

 国内では、高村薫が2016年に「土の記」という小説を発表しました。現役時代には電気工業会社の社員だった主人公が、妻を失い古希を迎えて奈良県の棚田でコメ作りをしている話です。夫婦を取り巻くいろいろな人間関係が主題ですが、その背景でふんだんに土が出てきます。「粘土質の黒い北関東ローム層」「水の通りの悪いグライ土の灰白色のB層」「典型的な褐色森林土」「花崗岩の薄黄色い集積層」「鉄やアルミの溶脱」「シベリアの永久凍土のポドゾルの色」「出穂30日前から葉の色と幼穂の有無」「原基が形成されたあとの幼穂の成長」などの専門用語が使われ、びっくりです。

 今月3月11日(東日本大震災7年目)、A新聞36面に、育てるコツ「理想の土壌」という記事が載っていました。理想の土壌って何だろう?と興味津々で読んでみました。「“いい土”とは、適度の水分と空気がまんべんなく含まれた、ふんわり柔らかい土」「pHは、中性から弱酸性が理想的」「水はけも良く、雨が降った後にはさっと水が引く」「少々日照りが続いても適度な湿度を保つことができ、植物を支え続ける」こういったものが理想の土壌だそうです。さて、そんな土はどこにあるとお考えでしょうか?

 実は、守谷の土は、まさにこの条件全てに当てはまります。つまり、我々は「理想の土」の上に住んでいるのです(*_*)。その下に常総粘土と呼ばれる白い土が出てきますが、これは残念ながら理想の土ではありません。地表面に見られる黒っぽい守谷の土を見直してください。これは、「理想の土」なのです。(注:ただし、植物によっては若干の肥料調整が必要です。)

2月の学長ブログ

 今月はピンチです。学長ブログに何を書こうか、一向に決まらないのです。あれかな?これかな?と、多少は思いつくのですが、話の展開を考えると、どれも陳腐だったり、観念的だったりで、魅力に欠けます。こんな時はどうすれば良いか、悩んでいます。

 そうだ、「ブログが書けない」というキーワードでインターネットを検索しよう、と思いつきました。それで、覗いてみると、あるあるで大変です。「ブログが書けない」という壁にぶち当たっている人が世の中にはこんなに沢山いるのだ、と知りました。しかも、何故書けないか、の分析まで細かく書いてあります。どれどれ、とそのアドバイスを読んでみましたが、まあ、「完璧主義過ぎるから」「納得するまで出せないから」「詰め込み過ぎだから」などの理由が書いてありまして、そうかも知れないとは思いました。でも、どうすれば書けるか、は結局わかりませんでした。

 そもそも、毎月の学長ブログは、なぜ書く必要があるのだろう?誰が決めた?とだんだん疑い深くなって、根源にまで遡っていきます。が、よく分かりません。ここを追求しても答えは見えそうもありません。さて、道は塞がってしまいました。今月の学長ブログはパスしようか、と思い始めています。書くことがないからです。「面白い本を読んだか?」と聞かれれば、「期待して読み始めた本がつまらなかった」と答えます。「何か心躍る体験があったか?」と聞かれれば、「寒い日が続いて、特に楽しい出来事は無かった」と答えます。「誰か珍しい人に会ったか?」と聞かれれば「相変わらずいつも会う人たちと楽しく会っています」と答えます。こんな調子でいくと、何を聞かれても平々凡々、ドラマがありません。これではブログを書けません。

 結論です。今月は学長ブログをパスします。書く内容が見当たらないからです。何だか寂しいです。そうそう、守谷市議会だより「こじゅけい」の表紙に私たちの写真がでかでかと印刷されました。気恥ずかしいような、嬉しいような、微妙な気持ちです。ブログ欄がこのように空疎だったので、「こじゅけい」誌の写真と記事をもって代行とさせて下さい。来月までには、何とかドラマを作っておきたいと思います。

1月の学長ブログ

 明けましておめでとうございます。平成30年の幕開けです。市民大学の専門コース、オープンコースも動き出しました。間もなく、守谷の市議会だより「こじゅけい」に、もりや市民大学のインタビュー記事が掲載される予定になっています。議会からどんな印象を持たれているかが分かるかもしれません。

 さて、私こと、この正月に「ちきゅう」を見てきました。いえいえ、宇宙船に乗ったわけではありません。地球深部探査船「ちきゅう」号に乗船してきたのです。国立研究開発法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)という厳めしい組織が運営する5万6千トンの海底探査船です。海底から採取したボーリング試料を分析して、メタンハイドレートや熱水と生命の謎を研究しています。東北地方太平洋沖の地震調査掘削では、日本海溝のプレート境界断層の試料、つまり、この地を襲ったあの3.11大震災の原因となった地球内部の直接的な地層証拠物件を採取したというから、驚きです。「ちきゅう」号の定員は200名で、研究者はその1/3程度でしょうか。あとは、船を動かす乗組員です。なにしろ国際的な最先端研究を行っているので、船内の情報伝達は英語が基本です。英語の勉強、大事ですね。

 一番驚いたのは、深さ6900mに達する海底まで「ちきゅう」号からパイプを下げる技術と、海底下の地層3000mまで掘って試料を採取する技術です。海流あり、波あり風ありの中で、パイプを吊り下げた状態でどうやって船を安定的に静止させておくのでしょう?何と、GPSを用いて船の現在位置を常時モニタリングし、洋上で同じ位置同じ方向に静止するように6個の特殊スクリューを自動制御で回しているそうです。その位置誤差は1m以内というから驚きです。船長さんもこの件を説明するときは得意げでした。

 お正月に「ちきゅう」を見てきた話しは以上です。大きな夢を見た思いです。何よりも、乗船している研究者の皆さんが、胸を張り、誇らしげに、しかも嬉しそうに研究のお話をされるのが印象的でした。今の時代、こんなに楽しそうに仕事ができる方々は幸せだな、と思いました。さあ、「ちきゅう」から「もりや」に帰って、自分の仕事に戻りましょう。ここにも大きな夢があるはずです。

12月の学長ブログ

 私が卒業し、かつ、教授を務めた大学の研究室出身者の話です。その研究室からは、3人の学長が生まれました。国立I大学、国立U大学、もりや市民大学(私)、の各学長です。先日、そのうちの1人が亡くなり、もう1人の現職学長が弔辞を述べました。弔辞の中のエピソードで、亡くなった元学長は、生前、「君ねー、教育というのは、童謡の“かなりあ”の歌詞のようであれば良いのだよ」と話していたそうです。

 それで、ここに童謡「かなりあ」(詩・西条八十)の歌詞を再掲します。
     歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
    いえいえ それはかわいそう
   歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
    いえいえ それはなりませぬ
   歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
    いえいえ それはかわいそう
   歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい
    月夜の海に浮かべれば忘れた歌を思い出す

 2番の「埋ける」は「いける」と読みます。教育は、できの悪い子を叱責するのではなく、そういう子も大切に優しく守ってあげれば花開くのですよ、という意味でしょう。とても良い話でした。国立大学の学長同士がこういう会話を交わしていたのです。さすが、2人とも私の後輩だけのことはあります。良い話だなーと胸を打たれました。

 もりや市民大学でも、受講生、修了生を山に捨てたり小籔に埋けたり柳で鞭打ったりはしません。象牙の舟は、動物愛護の観点から言って作れませんので、まあ、修了証の授与で勘弁してもらいます。それにしても、童謡「かなりあ」の歌詞は、結構過激ですね。「役に立たぬ者は捨ててしまえ」といった価値観が当時の社会には存在していたと考えられます。私も「かなりあ」がこんな激しい言葉で歌われていたことを知りませんでした。今年、歌手の「ゆず」が新曲「カナリア」をリリースしたそうですが、こちらの歌詞はもっと明るく希望に満ちています。歌が作られた時代を反映していると思います。

11月の学長ブログ

 6月開講コースが修了し、11月開講コースが始まりました。運営委員会では、修了コースはどうだったかを総括し、11月開講コースを運営しつつ、来年6月開講コースの設計を開始しています。なかなかに忙しいです。そんな中で、大人気だった修了コースと、受講者数が少なかった修了コースの反省をしました。

 「健康ウォーキングマスター講座」は定員20名で募集しましたが、1日か2日で受講希望者が30名を超え、講師の宇佐美先生と相談のうえで定員をギリギリ35名まで増やしました。それでもこの定員を超えて次々と希望者からの問い合わせがあり、お断りするのが大変だし申し訳ない気持ちで一杯でした。そして、10回の講義修了時アンケートによると、コース満足度は90%以上、自由意見でも「痛みが生じず歩けるようになりました」「理論がわかった」「姿勢が良くなった」「疲れにくく歩けるようになった」「楽しかった」「多くの人に経験してほしい」「継続した方が良い」「分かり易く最高」といった書き込みが溢れました。受講生35名全員が修了証を受け取ったのも、もりや市民大学始まって以来のことでした。

 「守谷をもっと良くしようプロジェクト」も定員20名で募集しましたが、受講希望者14名に留まり、開講可能性がギリギリでした。さてこのコースですが、10回の修了時アンケートを見ると、コース満足度はやはり90%以上でした。自由意見も「新たな気づき、学びをいただきました」「意見交換が良かった」「疑問点がよく分かった」「非常に面白かった」「具体的で分かり易かった」「守谷をもっと良くする為には必要な講座」「内容的に素晴らしいので受講者数を多くしてほしい」など、とても積極的でした。このコースは期待以上であった、と総括しています。

 こうしてみると、受講者数の多い少ないは、コース名のつけ方が多いに影響しているのではないか、それは運営委員会の責任ではないか、ということになり、反省しきりでした。これからのコース設計では、より魅力的なコース名を考案し、受講者数をさらに広げていきたいと思います。いま、「守谷未来設計コース」といった名前のコース設計を検討中ですが、こんな名前はいかがですか? 

10月の学長ブログ

 良い季節になりました。涼しい、暑い、良い天気、さわやか、ストーブが必要、など全国各地からのメールの冒頭には、季節の変わり目に相応しい様々な時候の挨拶言葉が書いてあります。メールは、短ければ短いほど良いとされていますが、それでも時候の挨拶言葉が一言入っていると、なごみます。

 それにしても、言葉の正確さ、重み、味わい、などについて心配です。A新聞のファクトチェックという欄を見ると、たとえば安倍首相が昨日の記者会見で言った言葉について、本当かどうかの事実確認をした結果を、地味な記事として1面中間あたりに記載しています。これを読むと、記者会見での発言は事実ではなかった、誤りだったことが証明されたりしています。それで、その後はどうなるのだろう?と思いますが、それ以上のフォロウアップ記事は見当たりません。

 世の中に出た情報や言葉が、事実かどうか、という疑問はなかなか解消しないという現実社会に、大きな失望を感じます。科学の世界では、理論や予測が真実かどうか、事実かどうかが厳しく検証されます。そうでなくては科学の目的は達成されないからです。重力波の存在が100年も前に予測されましたが、それが事実であることを証明した人はノーベル賞を受賞しました。

 人間社会だって同じではないでしょうか?言ったことが事実かどうか、それを確かめて、事実であることが証明されたら大いに高評価を与えるべきです。逆に、事実でないことを述べたり記述したりの場合、厳しく批判し、最後まで責任を問うべきです。しかし、昨今の様子では、事実でないことを口にしても、何かに勝つと、その責任は問われなくなる道がある、と教えているかのようです。「嘘も方便」という諺は仏教用語で、人間社会の潤滑油として許されています。でも、その場合は、人助けが目的です。自分を正当化するための「嘘も方便」が多すぎませんか?

9月の学長ブログ

 毎月、15種類以上のいろいろな学術雑誌が手元に届きます。その中の1つにJGL (Japan Geoscience Letters)という16ページ編集の薄い雑誌があり、日本地球惑星科学連合フェロー受賞者の記念特集記事がありました。この学会は、宇宙の科学から地球環境の科学、地球生命化学、地球温暖化、気象災害、地震など、地球と宇宙に関する科学全体の連合体です。フェロー受賞というのは、この分野で特に高い業績を挙げた研究者を名誉会員として表彰する制度です。

 で、政府の地震調査委員会の長期評価部長だった方が、受賞者の1人として記念記事を書いておられました。記事のタイトルは「研究の面白さに、はまってしまった人へ」となっており、おや?珍しいタイトルだな、と思いました。この種の記事では、自分が歩んできた研究人生が認められて嬉しい、といった内容がほとんどだからです。そこで、どれどれ、と読み進んで行くと、何とこの方、怒っています。何に怒っているかというと、地震調査委員会で決定した事項が、社会への公表時に圧力を加えられたり書き加えられたりした、という経験を3回もした、と書いておられます。「不都合な真実」を覆い隠そうとする意図があったと思われる、と断言しています。

 この名誉ある受賞者の方は、「研究の面白さにはまってしまった人、のめり込んでいる人、そんな人に、思いがけない落とし穴が待っている」と言うのです。その落とし穴とは、「科学的におかしなことが大手を振っている場が存在する」とのこと。どうやら、地震調査委員会のことをさしているようです。そして、研究で成果を挙げて人に知られるようになり、やがて声がかかって○○委員に指名されたとしても、居心地の悪い場にいることは時間の無駄だから、即刻退場したほうが良い、とアドバイスしています。地震調査会で、よっぽどいやな目に会ったのでしょう。名誉ある受賞者の記念記事としては異例の告発文でした。

 科学が社会の役に立つためにはどうしたら良いか、というテーマは、今もとても重要な論点です。もりや市民大学と同じく、科学と社会の「協働」のあり方を模索している昨今です。しかし、科学的に正しいと信ずることを発信したくても、必ずしも科学者の思い通りには社会に届かない、とすると、どこかが狂ってきそうです。この受賞者さんの怒りは、科学者にも社会の側にも深い問題提起になっていました。この方が言う「科学的におかしなことは科学の場で批判せよ」という結論が社会に届くと良いのですが。