学長ブログ
5月の学長ブログ
立花隆、という名前をどなたもご存じのことでしょう。「知の巨人」と言われ、「田中角栄研究」「宇宙からの帰還」「臨死体験」などの著書で次々と話題をさらい、昨年4月に80歳で亡くなりました。その著書の中に「新世紀デジタル講義」(新潮社、2000年)という本があります。その序文に、これまでの読書法とこれからの読書法について、面白いことが書いてありました。曰く「拾い読み、トバシ読みでもよいから、できるだけ多読、乱読する(中略)効用を強調する人はあまりいなかった」「とにかくわかるところだけ拾ってガンガン読んでいく」「わからないところはとりあえず後まわしにして、とにかく先に進め」「ひっかかっても、止まってはいけない。とにかく進むことである」と。
この序文を読んで、電子機器の取り扱い説明書(取説)を思い起こしました。或いは、パソコンやスマートフォンなどで推奨される新しいソフトウエアの説明文なども頭に浮かびました。こういった文書は、ほとんど何が書いてあるかわからず、1行か2行読んだあたりで挫折することもしばしばです。
しかし、立花隆によると、わかるところだけ拾ってガンガン進め、とおっしゃる。「場合によっては、何十ページにもわたって、ただページをめくるだけに終わるかもしれない。それでもとにかく最後までページをめくってみることだ。」そうすると「本当の多読能力」が身につくという。まことに柔軟な考え方であり、教えられるところが大きいです。
精読、熟読の経験を積み重ねて今日までを生きてきた諸氏においては、こういったスピードのある読書法を受け入れることに抵抗感がありましょう。私も、立花隆が言うような軽快な読み取り技術を身につけることに困難を感じます。が、世の中がデジタル社会に向かって動き始めている今日、自分の家族や身近な地域社会でも、こういった「新しい常識」が定着しつつあるのだな、と認めるところです。皆さんはどうお考えでしょうか?
4月の学長ブログ
2022年度の「もりや市民大学」プログラムが漸く整い、パンフレット案内状の準備も完了しました。何しろ、2020年度はコロナ感染による完全中止、2021年度は教室とオンラインというハイブリッド形式での開講、そして、2022年度はコロナ第7波の様子をうかがいながらの開講準備、ということで、これまで体験したことのない異例体制が続いています。
こうした準備で奮闘する「もりや市民大学」の運営委員ですが、どのようにして決まっているのか、ご存じでしょうか?そのほとんどは、守谷市広報に掲載された公募に応募された方々で構成されています。運営委員会は、この4月、5月にかけて、2023年度の市民大学運営方針の検討を始めます。コースの枠組みは2年間同一なので、2023年度は2022年度と同じ枠組みになります。しかし、その中身はまだ白紙です。運営委員の皆さんは、それぞれの役割分担に分かれ、2023年度にどんな講義を準備するか、回数や講義様式(教室受講、オンライン受講、現地訪問など)をどうするか、などを具体的に詰めていきます。
ところで、こんな運営委員会でも、時々、「このままで良いのかな?」という疑問がふつふつと湧いてきます。先日も運営委員会とは別にフリーの懇談会「これで良いのか、市民大学」を開催しました。すると、出る出る、たくさんの意見が出ました。つまり、レールの上を安全に走っていればよいという大学ではありません。より良い市民大学にするためには何が必要か、自由な意見交換が大切なのです。
このように、文字通り手作りの市民大学を運営しています。市民のご期待に添えないところがあれば、ひとえに私たちの力不足です。逆に、受講生から「面白い講義が聞けた」「選んだコースは自分に有益だった」などの感想をいただくと、運営委員は泣いて喜ぶ次第です。今回は、運営委員会の現状をサクっとご紹介しました。運営委員は、誰かに選ばれてなるものではありません。あくまで、自発的に参画された方々により構成されています。これが、多様性と透明性を保つために大切かな、と考えています。
3月の学長ブログ
チェルノは「黒」、ジョームは「土地」、どちらもロシア語です。そして、チェルノジョームは「黒い土」を意味し、世界で最も肥沃な(有機物を豊富に含む)土なので「土の皇帝」と称されています。チェルノジョーム地帯では、小麦やトウモロコシなどが肥料無しでも豊かに育ち、世界の穀倉地帯を形成しています。ちなみに、チェルノブイリは「黒い草」を意味します。チェルノジョームもチェルノブイリもウクライナにあります。
ウクライナの豊かさは黒い土(チェルノジョーム)と広い平野がもたらしていると言えますが、その大切なチェルノジョームをロシアの戦車がかき乱し、土地を荒らしています。何という乱暴狼藉か。
毎日のニュースが、ウクライナ情勢とオミクロン株感染で占められ、パラリンピックの閉会式はほとんど無視されてしまいました。こんな暗いニュースが世界を覆う日が来るとは、思いもよりませんでした。
かつてソ連時代のウクライナを訪問した経験を持つ友人から、当時の写真が送られてきました。チェルノジョームに穴を掘り、土の断面を写真に収めたのです。その写真を眺めると、まるで日本の土を見ているようです。よく似ているので、今回は珍しく写真添付のブログとします。見た目は似ていますが、チェルノジョームの方が土の肥沃度がはるかに高いことに、驚きと羨望を覚えます。
(写真添付作業中)
左はウクライナのチェルノジョーム(古い写真なので青みがかっている)、右は千葉県の関東ローム。守谷市が配布した緑のヤッケを着ているのは私です。
2月の学長ブログ
黄砂は、ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠で巻き上げられて偏西風によって広域に運ばれ、春先の日本にも飛来して地面に落ちてきます。スギ花粉と同じような時期に飛来するので、花粉症アレルギーと黄砂アレルギーを同時に発症する人もいて(実は私もその一人)、全く厄介物だと考えていました。
ところが、最近、この黄砂が人間を救う働きをしていることが分かってきました。あの福島第一原発事故由来の放射性物質セシウム137ですが、黄砂はこのセシウムを強く吸着して作物に吸収されることを抑える効果があることが、京都府立大学の中尾淳博士らのグループによって解明されました。「黄砂には作物を守る力がある」のです。特に、守谷市のように火山灰土や黒ボク土で覆われている土地では、この発見は重要な意味を持ちます。なぜなら、火山灰土はセシウムを吸着する力が弱く、このような土に植えた作物は土壌中の放射性物質を吸収する心配が大きいのですが、たとえ微量でも火山灰土に黄砂が混じっていればそれがセシウムを吸着してくれるのです。
幸いなことに、黄砂は日本全体に降り注いでいるので、守谷市のような火山灰土の土地でも、この微量な黄砂がセシウムを捉えて離さない、という効果を発揮しているのです。アレルギーの敵、と思っていたにっくき黄砂が、実は命を守る大事な働きをしていたと知った時の驚きは、とても大きいものでした。なぜ黄砂がセシウム137を捉えて離さないか、というと、それは火山灰土にはほとんど含まれていない雲母(うんも)という成分が黄砂には豊富に含まれており、この雲母がセシウムを強く吸着するからなのです。
雲母(うんも)はキララとも呼ばれますが、そう言われてピンとくる人は滅多にいません。絶縁体に使われているね、と気づく人は、電気に詳しい人、岩石のかけらで表面のピカピカから雲母を連想する人は、タモリのように岩石に詳しい人でしょう。有名な作家、芥川龍之介は、「雲母のような」といった表現を複数回利用しています。この雲母を含む黄砂が日本人を助けている、と知って、一面だけで好き嫌いや価値を判断してはいけない、と大いなる教訓を得た次第です。
1月の学長ブログ
新年、明けましておめでとうございます。と言いつつ、オミクロン株と称する新型コロナ感染が急拡大し、何をするにもおっかなびっくりになっています。初詣もビクビク、成人式もビクビク、学校への登校もビクビク、離れて暮らす家族が一堂に会するのもビクビク、東京や街中に出かけるのもビクビク。これでは心が縮んでしまいます。困ったものです。
そうした中で、ここ数日の報道を見ていると、日本の実力が相対的に低下していることがしきりに報じられています。例えば、企業の「お値段」つまり時価総額というのが、日本一のトヨタでさえ世界で29位に過ぎないとか、日本人が発表する科学論文の掲載数や被引用回数が激減しているなど、目に見える形で実力低下を指摘され、少しがっかりします。しかし、こういったランキング狙いの競争に骨身を削ることが果たして人々の幸せにつながるだろうか?という大いなる疑問も、当然ながら湧いてきます。そうです、人気度No.1とか、ランキング上位、とかいう指標に踊らされるのは、あまり心地よいものではありません。もし仮にそのような競争で上位になったとしても、手に入るのはささやかな優越感のみ。
今年の抱負は、競争やランキングから少し距離を置き、いま手元にある課題を1つずつ乗り越えていく地道な成功を求めてみたいと思っています。例えば、令和4年度のもりや市民大学の開講です。令和2年度は中止、令和3年度は変則ハイブリッド教室運営、とやってきましたが、令和4年度は、何とか正規の軌道に戻したいと願い、現在、鋭意準備中です。とはいえ、2年間のブランクで、教室再開には新しいエネルギーが必要です。幸いにして、新たに加わった運営委員の皆さんのお力が、とても頼りになります。
寅年、年賀状にも沢山の寅君が登場でした。まあ、干支に何かを託するつもりはありませんが、今年も焦らずのっしのっしと歩んでいきたいと思います。昨年末10日間も入院して復活リハビリ運動中の私ですが、今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
12月の学長ブログ
35年前のある日、ぶらりとルーブル美術館に行きました。そう、あのパリにあるルーブル美術館です。ドイツのハンブルグで開催された国際学会で発表した帰りに、フランスでルーブル美術館、イギリスで大英博物館を見学することにしたのです。平日で、すいていました。館内をぶらぶら歩くと、ミロのビーナスさんが美しく立っていました。ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」の実物には驚きました。その大きさに、です。あんなに大きな絵とは知りませんでした。
さらに進むと、部屋の仕切りを抜けた左側の壁で「モナリザの微笑」に出くわしました。自分の目の高さに掛かっていました。防護ロープも防護柵もなし、いくらでも近づくことができます。「えっ、こんなに小さいの?」とこれも驚きました。そして、モナリザさんと向き合うことしばし、何故か心を奪われ、じっと見つめあうことになりました。何しろ、ここにある絵や彫刻は全て本物です。あの、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた絵そのものと出会った時の感動は今でも忘れることができません。
そのダ・ヴィンチさんに、再会することになりました。今回は、美術館ではなく病院です。私こと、ダ・ヴィンチ手術という最新ロボット(内視鏡下手術支援ロボット)手術を受けることになりました。この技術、アメリカの軍用に開発していたリモート手術の技術が民間に移され、1999年に完成しました。特に最近10年間で急速に全世界に広まり、日本国内でも各病院が積極的に導入しました。2019年には特許期限(20年間)が切れたので、開発競争や価格破壊が激化しているそうです。
とにかく、ルーブル美術館でモナリザさんに出会ってから35年の時を経て、ダ・ヴィンチさんに再会するとは思いもよりませんでした。麻酔を受けるときは、あのモナリザさんの謎の微笑を思い出しながら眠りにつきます。目覚めたときにも微笑んでくれると良いのですが、どうなるかは謎、です。
11月の学長ブログ
2021年8月に出版されたデジタル・ファシズム(NHK出版新書、堤未果著)を読みました。タイトルに興味を持ったからです。世の中はどんどんデジタル化が進んでいて、それに後れを取ると、何だか疎外感を持つようにならないか、といった漠然とした不安もありました。特に、高齢者はスマホ扱いやタッチパネル操作に対し、「やりにくいなー」という印象を持っていますから、さらにデジタル化が進めば、より一層取り残された感覚が強くなると思います。
そこに登場したのが、このデジタル・ファシズムという本でした。この本の特徴は、デジタル化について多くの通説、常識を取り上げ、「だが、本当にそうだろうか?」という疑問を全部で11ヵ所も指摘しているところです。たとえば、「今やキャッシュレスは海外では常識ですよ。日本はデジタル後進国。」という通説、デジタル技術が「少子高齢化や地方の過疎化、貧富の格差など、今日本が抱えるいくつもの課題が、解決されてゆく」という日本全国デジタル化(Society5.0)計画、「パンデミック危機が起きたことで、今や教育のデジタル化は必須となった」というOECD(経済協力開発機構)レポートの主張、などを取り上げ、その一つ一つに「だが、本当にそうだろうか?」と疑問を投げかけます。
この本に書かれている内容をどう評価するかは、読者それぞれが決めることですが、私は大いに影響を受けました。やがてデジタル・ファシズムがやってくる、と著者が投げかける危惧についても、決して楽観できないな、と思いました。その一方で、自分の日常生活を振り返ると、スマホ、パソコン、クレジットカード、スイカ、WiFi、ブルートゥースなどのお世話になっているのも事実です。
もりや市民大学では、2021年度はZoomを利用したハイブリッド方式で各コースを運営し、大いにデジタル技術に助けられましたが、別の視点で考える必要も、この本が教えてくれました。2022年度以降のもりや市民大学でも、デジタル化時代をどう読み、どう生きるか、新しい指針を示してくれるような講師を見つけ出して、ともに学んでいく必要がありそうです。
10月の学長ブログ
今月は、硬いお話で恐縮です。柔らかい話をしたくても、心の余裕が出てこないと、なかなか楽しい話題で喜ぶ気分になれません。最近、心の弾力性が低下しているようで、心配です。
さて、もりや市民大学は、いま、いくつかの課題をかかえています。
第1:コロナ禍で取り組んだオンライン授業方式の今後をどうするか。
第2:新しい受講生をもっと多く受け入れるためにはどうしたらよいか。
第3:守谷市との協働のまちづくりを推進するためのプログラムをどう設計するか。
第4:運営委員の人材補強が必要になってきた。
第5:守谷市以外の在住者にも門戸を開くべきかどうか。
これらの課題への対応は、概ね次の通りです。
第1:2022年度は教室授業の再開を考えています。ただし、オンラインやハイブリッド方式についても、必要なら準備できます。
第2:広報活動を強めたいです。方法は検討中です。
第3:協働のまちづくりは、本大学開校の基本理念でもあります。2022年度開講に向けて、魅力的なコースを設計すべく鋭意検討中です。
第4:守谷広報誌上で新たに運営委員を公募したところ、幸いにして積極的な応募者が集まり、どうやら希望通りの人材補強が実現できることになりました。心強い限りです。
第5:公開講座や交流人口に関わるテーマのコースなどをオープンコースとして設計し、市内外に開かれた市民大学に進むことを検討しています。
茨城県のコロナ感染者数が日々減少している今、次のリバウンドを心配しつつ、個々人の課題も沢山お持ちでしょう。そして、まだ油断できない緊張感の中で、2022年がすぐそこまで近づいています。明るい年がやってくることを願わずにはいられません。もりや市民大学で、より多くの笑顔に接するために、少し硬い話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
9月の学長ブログ
緊急事態宣言が延長・続行する中、もりや市民大学の3つのコースは、工夫をしながら運営を続けています。教室参加で入学した受講生の多くの方が、必要に迫られてZoom利用のオンライン受講へと切り替える努力をしておられます。私自身は7月10日に総合コースで「守谷の土と水」という講座を担当し、この時は教室参加、オンライン参加が半分半分でした。その際、講義終盤で、「守谷の放射能汚染は、その後どうなっていますか?」とのご質問を頂きました。
そういえば、福島第一原発の事故後のセシウム137汚染については、いつの間にか情報発信が消えています。講義は「守谷の土と水」がテーマですから、誠にごもっともなご質問でした。私は「学校や公園などの公共用地、道路や住宅地などの除染は終了しており、放射能汚染は残っていないが、山林・里山で人手が入っていない地区では、セシウム137はその場に残留している可能性が高いと考えています」とお答えしました。
その場ではお答えしましたが、気になってその後の情報を調べてみました。まず、守谷浄化センターが定期的に公表している脱水汚泥の放射性物質濃度測定結果を閲覧すると、最近のデータは全て「不検出」つまり汚染の痕跡は残っていない、とありました。下水管を通して集積される物質中にはセシウム137は検出されないので、私の回答前半は正しいようです。問題は回答後半です。幸いにして「森林の放射線生態学」(2021年3月、丸善出版)という本が出版され、森林の汚染問題を正面から教えてくれました。「森林に降った放射性セシウムのうち、森林外に流れ出る割合は非常に少ない」「森林の空間線量率は時間が経過しても低下しにくい」「放射性セシウムは、多くの森林では地表の落葉層に長く留まることはなく速やかにその下の鉱質土壌に移行」などの記述が、実測データと共に見られます。
守谷市には、人手の入らない山林・里山のほか、住宅地の雨水調整池もいくつかあり、その中で一段低い窪み地は水も土も植物も動いていないと思われます。このような場所では、セシウム137は自然消滅するまで、土壌に吸着された状態で残留している可能性が否定できません。ご質問者への私の回答は、残念ですがほぼ的確だったようです。災害からの完全復旧はそう簡単ではない、と改めて知らされました。
8月の学長ブログ
オリンピックが終わり、終戦記念日があり、次のパラリンピック開始までにコロナウイルス感染者が何とか減少に転ずるといいな、と思っていた矢先に、今度は災害のニュースがいっぱいです。線状降水帯という厄介な「雲の糸」が上空を覆い、信じられない大量の雨を降らせています。2019年の常総市鬼怒川洪水を思い出さずにはおれません。どうしてこんなに異常気象が続くのでしょう?
人間活動がもたらす気候変動、それが異常気象の元凶であるとの見方が有力です。IPCC (気候変動に関する政府間パネル)の第6次評価報告書第1作業部会が8月9日に発したレポートには、「人為起源の気候変動は、世界中の全ての地域で、多くの気象及び機構の極端現象に既に影響を及ぼしている。熱波、大雨、干ばつ、熱帯低気圧のような極端現象について観測された変化に関する証拠、及び、特にそれら変化を人間の影響によるとする原因特定に関する証拠は、AR5以降、強化されている。」と記載されています。AR5はIPCC第5次評価報告書(2013年)のことです。この「強化されている」(原文ではEvidence has strengthened)という表現に、何とも悩ましい工夫の跡が見られます。
地球の歴史を紐解くと、宇宙138億年、地球46億年とかいう気の遠くなるような時間が経過し、この間、気候も自然現象のひとつに過ぎませんでした。ところが、約1万年前から人間活動が活発となり、それが自然気候の変動をもたらすようになったので、この1万年ぐらいを人新生(ひとしんせい、Anthropocene)と呼ぶべきだという学問的検討が有力視されています。
今回の線状降水帯も、人間活動がもたらした気候変動の一環なのか、それともこれは自然現象のひとつに過ぎないのか、定かではありません。地球環境全体の傾向と対策については、様々な学術的手法を用いて科学的に記述できますが、個々の地域における異常気象の原因を一般論から証明することは、「強化されている」とはいえ、簡単ではありません。この辺に難しさがあり、更なる学術の発展が必要とされる所以です。