学長ブログ

4月の学長ブログ

  急に、表彰される機会が増えました。地盤工学会という学会に安くはない学会費を30年以上払い続けてきたので、その経済的貢献度が大きいから、4月中に表彰して下さるそうです。何でも長くやっていると褒められる、ということです。5月には、日本地球惑星科学連合という巨大学会から「土壌物理学および環境地水学における,時空間変動する土壌中の移動現象の解明と理論化に関する顕著な功績により」という理由でフェローの称号が与えられます。表彰してくれる学会に文句をつける筋合いはありませんが、日本と地球と惑星という3つを繋げて命名する学会は不思議な感じがします。学の境界線がどこにあるのかな、と思うほど守備範囲が広いです。

 ところで、フェローを日本語に訳すと何になるのでしょう?ネット検索しても、フェローはフェローでしょ、とばかりにそのままカタカナで書いてあります。無理に日本語にすると、特別研究員、大学理事、仲間、同僚とかの意になり、何だか変です。奨学金をもらう研究員もフェローですが、今回はそう言った実利面のご褒美はなく、名誉だけを授ける、といった趣旨のようです。誠にありがたいことです。こだわるようですが、フェローの適切な日本語訳はありませんか?

 賞を頂くのは嬉しいものです。何よりも推薦してくれる人がいてこそ受賞が決まるのです。自己推薦というのはなかなか難しく、多くの場合、他者からの推薦によって受賞の運びとなります。その意味では、推薦されるような立派な行いをしました、という面が一番大切かも知れません。

 そういえば、守谷市でも、いやいや市民大学の運営委員や受講生にも、いろいろな賞を受賞されている方々がおられます。スポーツ大会の入賞や優勝も素晴らしい受賞です。ゴルフコンペの優勝などは、誰かに自慢せずにはいられません。賞を頂く、表彰される、こういう体験は、子供でいえば「褒めて育てる」ことに繋がります。年長者の場合は「褒めて長生きさせる」のが効用でしょうか。

3月の学長ブログ

 私の学術的な専門分野は「土壌物理学」です。だから、土壌に関連するニュースやら評論やら小説やらが時々注目されるのが楽しみです。

 最近では、アンディ・ウィアーという著者が書いた「アルテミス」(邦訳、「火星の人」2015年)が話題となり、「オデッセイ」という名前の映画として日本でも上映されました。この本は、火星に1人取り残された主人公が、基地に残された31日分の食料で、如何にして救助隊が来るまでの長期間を生き延びるか、という宇宙開発新時代のサバイバルSFです。そのカギとなるのが土壌でした。火星の土を基地施設内に持ち込んで、地球から積み込んできたジャガイモを植え付け、栽培して増やして食料生産を行おうというシナリオです。この本では、全体のドラマチックな展開を損なうことなく、土壌が詳細に分かり易く記述されていて、小説として大いに楽しむことができました。全世界で驚異的なベストセラーだったそうです。

 国内では、高村薫が2016年に「土の記」という小説を発表しました。現役時代には電気工業会社の社員だった主人公が、妻を失い古希を迎えて奈良県の棚田でコメ作りをしている話です。夫婦を取り巻くいろいろな人間関係が主題ですが、その背景でふんだんに土が出てきます。「粘土質の黒い北関東ローム層」「水の通りの悪いグライ土の灰白色のB層」「典型的な褐色森林土」「花崗岩の薄黄色い集積層」「鉄やアルミの溶脱」「シベリアの永久凍土のポドゾルの色」「出穂30日前から葉の色と幼穂の有無」「原基が形成されたあとの幼穂の成長」などの専門用語が使われ、びっくりです。

 今月3月11日(東日本大震災7年目)、A新聞36面に、育てるコツ「理想の土壌」という記事が載っていました。理想の土壌って何だろう?と興味津々で読んでみました。「“いい土”とは、適度の水分と空気がまんべんなく含まれた、ふんわり柔らかい土」「pHは、中性から弱酸性が理想的」「水はけも良く、雨が降った後にはさっと水が引く」「少々日照りが続いても適度な湿度を保つことができ、植物を支え続ける」こういったものが理想の土壌だそうです。さて、そんな土はどこにあるとお考えでしょうか?

 実は、守谷の土は、まさにこの条件全てに当てはまります。つまり、我々は「理想の土」の上に住んでいるのです(*_*)。その下に常総粘土と呼ばれる白い土が出てきますが、これは残念ながら理想の土ではありません。地表面に見られる黒っぽい守谷の土を見直してください。これは、「理想の土」なのです。(注:ただし、植物によっては若干の肥料調整が必要です。)

2月の学長ブログ

 今月はピンチです。学長ブログに何を書こうか、一向に決まらないのです。あれかな?これかな?と、多少は思いつくのですが、話の展開を考えると、どれも陳腐だったり、観念的だったりで、魅力に欠けます。こんな時はどうすれば良いか、悩んでいます。

 そうだ、「ブログが書けない」というキーワードでインターネットを検索しよう、と思いつきました。それで、覗いてみると、あるあるで大変です。「ブログが書けない」という壁にぶち当たっている人が世の中にはこんなに沢山いるのだ、と知りました。しかも、何故書けないか、の分析まで細かく書いてあります。どれどれ、とそのアドバイスを読んでみましたが、まあ、「完璧主義過ぎるから」「納得するまで出せないから」「詰め込み過ぎだから」などの理由が書いてありまして、そうかも知れないとは思いました。でも、どうすれば書けるか、は結局わかりませんでした。

 そもそも、毎月の学長ブログは、なぜ書く必要があるのだろう?誰が決めた?とだんだん疑い深くなって、根源にまで遡っていきます。が、よく分かりません。ここを追求しても答えは見えそうもありません。さて、道は塞がってしまいました。今月の学長ブログはパスしようか、と思い始めています。書くことがないからです。「面白い本を読んだか?」と聞かれれば、「期待して読み始めた本がつまらなかった」と答えます。「何か心躍る体験があったか?」と聞かれれば、「寒い日が続いて、特に楽しい出来事は無かった」と答えます。「誰か珍しい人に会ったか?」と聞かれれば「相変わらずいつも会う人たちと楽しく会っています」と答えます。こんな調子でいくと、何を聞かれても平々凡々、ドラマがありません。これではブログを書けません。

 結論です。今月は学長ブログをパスします。書く内容が見当たらないからです。何だか寂しいです。そうそう、守谷市議会だより「こじゅけい」の表紙に私たちの写真がでかでかと印刷されました。気恥ずかしいような、嬉しいような、微妙な気持ちです。ブログ欄がこのように空疎だったので、「こじゅけい」誌の写真と記事をもって代行とさせて下さい。来月までには、何とかドラマを作っておきたいと思います。

1月の学長ブログ

 明けましておめでとうございます。平成30年の幕開けです。市民大学の専門コース、オープンコースも動き出しました。間もなく、守谷の市議会だより「こじゅけい」に、もりや市民大学のインタビュー記事が掲載される予定になっています。議会からどんな印象を持たれているかが分かるかもしれません。

 さて、私こと、この正月に「ちきゅう」を見てきました。いえいえ、宇宙船に乗ったわけではありません。地球深部探査船「ちきゅう」号に乗船してきたのです。国立研究開発法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)という厳めしい組織が運営する5万6千トンの海底探査船です。海底から採取したボーリング試料を分析して、メタンハイドレートや熱水と生命の謎を研究しています。東北地方太平洋沖の地震調査掘削では、日本海溝のプレート境界断層の試料、つまり、この地を襲ったあの3.11大震災の原因となった地球内部の直接的な地層証拠物件を採取したというから、驚きです。「ちきゅう」号の定員は200名で、研究者はその1/3程度でしょうか。あとは、船を動かす乗組員です。なにしろ国際的な最先端研究を行っているので、船内の情報伝達は英語が基本です。英語の勉強、大事ですね。

 一番驚いたのは、深さ6900mに達する海底まで「ちきゅう」号からパイプを下げる技術と、海底下の地層3000mまで掘って試料を採取する技術です。海流あり、波あり風ありの中で、パイプを吊り下げた状態でどうやって船を安定的に静止させておくのでしょう?何と、GPSを用いて船の現在位置を常時モニタリングし、洋上で同じ位置同じ方向に静止するように6個の特殊スクリューを自動制御で回しているそうです。その位置誤差は1m以内というから驚きです。船長さんもこの件を説明するときは得意げでした。

 お正月に「ちきゅう」を見てきた話しは以上です。大きな夢を見た思いです。何よりも、乗船している研究者の皆さんが、胸を張り、誇らしげに、しかも嬉しそうに研究のお話をされるのが印象的でした。今の時代、こんなに楽しそうに仕事ができる方々は幸せだな、と思いました。さあ、「ちきゅう」から「もりや」に帰って、自分の仕事に戻りましょう。ここにも大きな夢があるはずです。

12月の学長ブログ

 私が卒業し、かつ、教授を務めた大学の研究室出身者の話です。その研究室からは、3人の学長が生まれました。国立I大学、国立U大学、もりや市民大学(私)、の各学長です。先日、そのうちの1人が亡くなり、もう1人の現職学長が弔辞を述べました。弔辞の中のエピソードで、亡くなった元学長は、生前、「君ねー、教育というのは、童謡の“かなりあ”の歌詞のようであれば良いのだよ」と話していたそうです。

 それで、ここに童謡「かなりあ」(詩・西条八十)の歌詞を再掲します。
     歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
    いえいえ それはかわいそう
   歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
    いえいえ それはなりませぬ
   歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
    いえいえ それはかわいそう
   歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい
    月夜の海に浮かべれば忘れた歌を思い出す

 2番の「埋ける」は「いける」と読みます。教育は、できの悪い子を叱責するのではなく、そういう子も大切に優しく守ってあげれば花開くのですよ、という意味でしょう。とても良い話でした。国立大学の学長同士がこういう会話を交わしていたのです。さすが、2人とも私の後輩だけのことはあります。良い話だなーと胸を打たれました。

 もりや市民大学でも、受講生、修了生を山に捨てたり小籔に埋けたり柳で鞭打ったりはしません。象牙の舟は、動物愛護の観点から言って作れませんので、まあ、修了証の授与で勘弁してもらいます。それにしても、童謡「かなりあ」の歌詞は、結構過激ですね。「役に立たぬ者は捨ててしまえ」といった価値観が当時の社会には存在していたと考えられます。私も「かなりあ」がこんな激しい言葉で歌われていたことを知りませんでした。今年、歌手の「ゆず」が新曲「カナリア」をリリースしたそうですが、こちらの歌詞はもっと明るく希望に満ちています。歌が作られた時代を反映していると思います。