学長ブログ

8月の学長ブログ

 もりや市民大学は開校以来6年を迎えました。現在、平成30年前期コースは佳境に入り、後期コースの準備も順調に整っています。「総合コース・守谷を知る」は、毎回好評であり、定員25名のところ、これを上回る入学者が続いています。定員上限は、教室の椅子や机の物理的容量から決めていますが、椅子を持ち込めば多少の人数超過を受け入れることが可能です。「専門コース・緑と人の健康」は7月26日に修了しました。定員30名のところ15名入学、その全員が無事修了しました。アンケート結果によると、このコースの修了者全員がその内容を非常に高く評価していたことが分かりました。コース満足度では、期待以上と期待通りの合計が93%という驚異的な数字でした。コース名から伝わる以上の深い内容だったことが分かります。

 「毎回、どうしてこんなに新しいテーマや新しい講師が見つかるのですか?」といった素朴な疑問をお持ちの方が多いようです。市民大学運営委員会では、毎回、新しいアイディア、情報、問題提起があり、それらを吟味していくうちに次の道が開けてくるので、結構ワクワクするのです。以前、「紹介無しの飛び込みで講師の依頼をしても、滅多に断られない」という話題を、このブログ欄で紹介したことがありますが、それだけではありません。守谷市の市民協働推進課では、役場全体に市民大学への要望や情報提供に関するアンケート調査を実施し、「こんなテーマが良い」「こんな人を知っている」という多数のヒントを獲得して運営委員会に提供してくれました。ここからも、豊富なコース設計が生み出されつつあります。

 私自身も、出身大学のもと同僚教授らと懇談する中で、「もりや市民大学から呼ばれれば喜んで行きますよ」という有難いお申し出をいくつも頂いています。皆さん、「あの守谷市に呼ばれる」という点にも魅力を感じておられるようです。近々、公開講座に東大教授をお呼びして、とっておきのお話をお願いしようか、と画策中です。

 平成30年後期コースは11月3日が開講日です。9月の守谷広報に受講申込案内が出ます。同時にパンフレットも発行されます。このコース設計では、「馴染のないカタカナが多い」という意見が運営委員会で出され、どうしたものかと議論中です。カタカナが新しい問題提起として受け入れられるのか、それとも、何を言っているのか分からん、と敬遠されるのか、この辺も見極めなければなりません。もちろん、内容には自信があります。ご期待ください。

7月の学長ブログ

 白樺派の志賀直哉は、兵庫県の城崎温泉を訪れて「城の崎にて」という短編を書きました。山手線で怪我をしてその治療のために温泉療養に滞在したとか。私は、7月第1週末、その城崎温泉に行って来ました。天気は豪雨。丸山川という大きな川沿いにバスで運ばれて温泉に到着しました。その途中、バスの車窓から見た丸山川の水位が異様に高く、何だか怖いなーと思っていました。

 その夜、「先ほどバスで通った国道は、丸山川が氾濫したため通行止めになりました。ここから外に出られなくなりました」というアナウンスがありました。今回の豪雨で、兵庫県にも多量の雨が降り、河川が氾濫したのです。窓の外では、温泉街を流れて丸山川に合流する小規模な河川がありましたが、ゴーゴーと音を立てて流れ、水位もぐいぐい上昇しました。その晩、携帯電話やスマートフォンにエリアメールという警戒情報が発信され、一晩に5~6回けたたましい緊急速報発信音が鳴り響きました。

 その後、テレビや新聞、ネット上で報道されている通り、九州、四国、中国、近畿という広域で200人以上の犠牲者が出て、未だ行方不明者が大勢いることを知り、自然災害の恐ろしさを実感しました。災害が身近に迫っているとき、その危険度を察知することは非常に難しいです。何故かわかりませんが、「それほどひどくはならないだろう」という楽観論に傾く傾向があります。そして、実際に災害が起きてみると、想定より甚大な被害が起きたことを思い知らされます。

 守谷市でも災害マップ作りや防災訓練を行っていますが、「守谷は大丈夫だろう」という楽観論があります。私自身もこの楽観論に傾いています。しかし、守谷市の中にも災害の度合いが高くなる可能性のある地域があることは否定できません。自分の中にある楽観論を戒め、予想していなかった自然災害に対する備えを怠ってはならない、と考えました。とりあえず、日常的に水を多めに確保しておくこと、車のガソリンは空っぽにしないように気を付けること、ガスや電気が止まってもしばらくは何とか食べて行けるような備蓄をしておくこと、地域のコミュニケーションを大切にすること、などは最低限必要です。

 城崎にて、自然災害を甘く見たことを反省し、わが身に起こるかも知れない災害への備えを改めて考えた7月上旬でした。なお、足止めされた城崎温泉からは、1日遅れで脱出できましたが、道路がいたるところで通行止めになっていました。犠牲者には心から哀悼の意を表し、被災地の復旧を祈ります。

6月の学長ブログ

 6月6日は、降りしきる雨の中、「もりや市民大学友の会」主催の永田町ウォーキングデーでした。総勢18名の参加者は、賑やかに千代田線赤坂駅に降りたち、まず向かったのは日枝神社。きれいに整備された伝統ある神社には、翌日から山王祭が始まるというので、豪華な神輿などが並んでいました。お参りを済ませ、ビル街を歩いて国会の議員会館到着、議員秘書さんと待ち合わせて議員食堂へ。カツカレーやかつ丼を食べた後、国会議事堂に入り、参院本会議場などの見学でした。引率して説明してくれたのは、国会議事堂職員のようですが、これが語り上手で、まるで渋谷のDJポリスのよう。いろいろと笑いを取りながら、飽きさせないよう、また騒がないように、上手に案内してくれました。

 続いて、いよいよ首相官邸です。いつもテレビに出てくる首相官邸に入りますと、建物は天然の石と木材でつくられていて、なかなか快適でした。ガラス越しに見える大きな部屋では、大勢の人がいてカメラも並び、何やら取材している様子。そして、組閣の時に大臣が並んで写真を撮る階段に、我々も並んで記念写真を撮りました。次に、いつも菅官房長官が記者会見する部屋に入り、参加者は1人ずつ演壇の後ろに立ち、記者の質問に答えている気持ちに浸りました。「ウソをついてはいかんぞ」と心に誓いながら・・・。

 当日はあいにくの雨模様でしたが、老若男女、修学旅行の高校生もまじって、大勢の見学者が出入りしていたのは驚きでした。国会や首相官邸に踏み込んだのは初めてですが、一つ気づいたことがあります。それは、厳重なセキュリティーチェックは当然ありましたが、全体として「こらこら、近づいてはいかん!」といったような禁止、監視が強いということはなく、むしろ、見学者は国民であって国民はここの主人公である、ここに来るのは当然だ、と思えたことです。守谷からわいわい訪れた18名が、厳重な警戒のもとで邪魔をしないようにビクビクしながら見学したのではなく、国民として丁重に扱われた、という思いで見学できたことは、幸いでした。

 こうして、日本の民主主義の成熟度を感じ取り、なるほど一度は来てみるものだな、と思う1日が無事に終了した次第です。友の会の柗本会長、紹介議員である松下参議院議員と秘書の方、大変お世話になり、ありがとうございました。

5月の学長ブログ

 毎年、この時期になると市民大学の自己評価を行います。もりや市民大学の運営委員全員が、この1年を振り返り、事業目標は達成されたか、成果は期待通りであったかなど、多くの項目について自己評価点をつけます。評価は、5:十分に達成した 4:達成した 3:概ね達成した 2:あまり達成できなかった 1:達成できなかった という5段階評価です。

 よくよく考えてみると、もりや市民大学もオール5という訳に行かず、いくつかの項目で3をつけざるを得ないものがありました。頑張ってみたけれど目標通りには達成できない課題は、人生にも日常生活にも決して少なくありません。そして、自己評価は難しいと思いました。なぜなら、これは主観的にならざるを得ない行為であり、自分を客観的に評価して点数をつけることには迷いが生じるからです。この自己評価という行動原理は、比較的最近日本に定着した文化です。かつて、評価というのは他者や管理者、指導者が行うものであり、より客観的であることが要求されていました。しかし、1991年に大学設置基準の改正があり、全国の大学で自己点検・評価を努力義務とすることが決定されて以降、多くの組織や団体で自己評価が行われるようになりました。当時現役の大学教員だった私は、自己評価のやり方に随分戸惑い、労力と時間を注いだことを覚えています。

 私がある大学で連続講義を行っていたとき、「あなたは、この講義を受講した自分に何点をつけますか?理由を述べて採点しなさい」というレポート課題を与えました。学生に自己評価をさせたのです。満点を100点としました。その結果は興味深いものでした。受講生の自己評価点が、私自身の評価点数と近いものが多かったのですが、中には辛目の70点をつけた学生もいました。その学生は出席率も良く、講義を聞いて「研究してみたい面白いテーマが見つかった」と述べています。講義する側から言えば、こういう反応こそが一番楽しいのですが、学生側からは、自分の目標とするところに比較して足りないところが多すぎた、と反省し、自らに辛めの点数を与えたようです。この学生に関しては、激励の意味を込めてもう少し高い点をつけました。

 そんなことで、市民大学の自己評価も間もなく集計が終わります。結果の数値よりも、自己評価を考えるプロセスにより大きな意味と意義があるような気がします。良い点を取ることに汲々とするより、自分になぜ何点をつけるかという思索に意味がある、ということだと思います。

4月の学長ブログ

  急に、表彰される機会が増えました。地盤工学会という学会に安くはない学会費を30年以上払い続けてきたので、その経済的貢献度が大きいから、4月中に表彰して下さるそうです。何でも長くやっていると褒められる、ということです。5月には、日本地球惑星科学連合という巨大学会から「土壌物理学および環境地水学における,時空間変動する土壌中の移動現象の解明と理論化に関する顕著な功績により」という理由でフェローの称号が与えられます。表彰してくれる学会に文句をつける筋合いはありませんが、日本と地球と惑星という3つを繋げて命名する学会は不思議な感じがします。学の境界線がどこにあるのかな、と思うほど守備範囲が広いです。

 ところで、フェローを日本語に訳すと何になるのでしょう?ネット検索しても、フェローはフェローでしょ、とばかりにそのままカタカナで書いてあります。無理に日本語にすると、特別研究員、大学理事、仲間、同僚とかの意になり、何だか変です。奨学金をもらう研究員もフェローですが、今回はそう言った実利面のご褒美はなく、名誉だけを授ける、といった趣旨のようです。誠にありがたいことです。こだわるようですが、フェローの適切な日本語訳はありませんか?

 賞を頂くのは嬉しいものです。何よりも推薦してくれる人がいてこそ受賞が決まるのです。自己推薦というのはなかなか難しく、多くの場合、他者からの推薦によって受賞の運びとなります。その意味では、推薦されるような立派な行いをしました、という面が一番大切かも知れません。

 そういえば、守谷市でも、いやいや市民大学の運営委員や受講生にも、いろいろな賞を受賞されている方々がおられます。スポーツ大会の入賞や優勝も素晴らしい受賞です。ゴルフコンペの優勝などは、誰かに自慢せずにはいられません。賞を頂く、表彰される、こういう体験は、子供でいえば「褒めて育てる」ことに繋がります。年長者の場合は「褒めて長生きさせる」のが効用でしょうか。