学長ブログ

12月の学長ブログ

 守谷の「鳥のみち」を散策しました。もりや市民大学「友の会」の主催で、南守谷駅を起点とし、愛宕中学校の裏手にある「守谷野鳥の森散策道」と、それに続いて守谷小学校の裏手にある「鳥のみち」を散策してみよう、ということになった次第です。確かに、湿原があり、よく整備された木道(愛宕中学校の生徒さんたちが貢献してくれたとか)、そして各種の鳥たちがさえずる自然道が続いていました。歩くのも快適なところが多かったです。そこで、歩きながら、「湿原」について考えてみました。
 そもそも、尾瀬や釧路の湿原地帯は、なぜあのように広く美しい景観を維持しているのでしょうか?それは、水に秘密があります。湿原が美しい景観を保つには、そこにある水が「貧栄養」でなければなりません。「貧」が「美」を作るのです。究極の「貧」は、雨水だけが流入し、他の一切の水の流入を阻止した場合に実現します。こうした条件下では、その栄養状態で生育できる限られた植物のみが繁殖するので、整然とした心休まる景観が出現します。その究極の姿がミズゴケ湿原です。ワタスゲやホロムイスゲもちらほら見えたりしますが、それ以上の雑木は水が「貧栄養」であるが故に生育しません。
 これの反対語が「富栄養」です。富栄養水というのは、植物の落葉や枝、小動物の死骸など有機物、農地から流出する肥料や農薬成分、生活雑排水に混入している様々な化学物質など、水の中にたくさんの養分が含まれている水のことです。また、土砂の流入も栄養を一緒に持ち込むことになるので、「富栄養」に一役買います。こうした水が流入すると、様々な植物が繁茂し、人間の手入れが無ければ雑然とした雑木林になってしまいます。「富」が景観を台無しにするのです。
 さて、わが「鳥のみち」は、湿原を貫く快適な木道とセットになって、美しい湿原景観に近づこうとしているのですが、水を観察してみると、周辺の土地から「富栄養水」がたくさん流入しているように見えました。これでは、美しい湿原風景に移行するのは難しいかもしれません。生活雑排水はもちろんですが、地表面を流れる自然の水もできるだけカットし、湿地帯には雨以外の水を入れないようにすれば、もっと景観が改善するのではないか、と思います。水は「富」より「貧」を好む。では、人間もそうか?などと無駄な思案をしながらの、楽しい2時間歩きでした。

11月の学長ブログ

  「守谷市には6つの地区があります」と話し始めたのは、守谷市社会福祉協議会代表の女性です。「今から、各地区の地域福祉活動計画の具体的な取り組みを、写真などを使って説明します」と続きました。さて、どんなお話だろうか?と聞き耳をたてました。まず、「守谷地区」「高野地区」「大野地区」「大井沢地区」「北守谷地区」「みずきの地区」という6地区それぞれで、独自に展開している活動が、確かに具体的に紹介され、とても新鮮でした。中でも、鬼怒川氾濫で災害を受けた常総市に対する支援活動にいち早く取り組んだ「みずきの地区」の活動経過には感銘を受けました。
 「みずきの地区」では、災害発生後数日を待たずに、毎日8名ずつのボランティア支援隊を組織して交代で現地派遣を行い、被災者支援に多大な貢献をなしたことを、この講義で初めて知りました。「みずきの地区」における日常的な地域福祉活動が良く組織化され、住民同士の相互信頼や連絡体制が整っていたからこそ、近隣市町村の突然の被災支援についても迅速な対応が取れたことを知り、日常活動レベルの高さと住民意識の深さを感じ取りました。
 このお話を聞いたのは、11月7日、市民活動支援センター1階ホールで開催された、もりや市民大学平成27年度後期コースの開講式でのことです。第1回市政講座として、「地域福祉の現状は~地域福祉計画を踏まえて~」と「守谷市地域福祉活動計画~もりやのしあわせみんなで築こう~」という2テーマでの講義があり、その後半で聞くことができました。
 「地域福祉計画」や「地域福祉活動計画」といった、漢字だらけで、ある種使いすぎの行政用語は、市民にとって鮮度の低い、言葉は悪いですが聞き飽きた文言になっているのではないかと思います。しかし、地域ごとのきめの細かい具体的な活動内容を伺うと、通り一遍の画一的な活動とは異なる、個性的で生き生きした具体的活動が浮かび上がってきます。こういう地域情報が、周辺地域にもうまく発信され、情報共有しつつ独自性を発揮できれば、もりや全体が多様性に富んだ発展を遂げられるのではないか、そんな思いがしました。

10月の学長ブログ

  いきなり私事で恐縮です。私が4年前まで勤めていた東京大学農学部の正門入り口すぐの左側に、「朱舜水先生終焉之地」という石碑が立っています。現役時代、この先生は何の専門家だったのだろうか?と不思議に思いながら、疑問のままに定年退職してしまいました。
 ところで、最近読んだ歴史小説に、その朱舜水先生が出てきてびっくりしました。この先生は、中国の明朝が滅亡した時に日本に亡命し、徳川家の水戸光圀に相談役として重用され、大きな影響を与えた人でした。続いて、あと2件びっくりしました。まず1件目は、当時の江戸における水戸屋敷の敷地と現在の東大農学部の敷地とは、ほとんど同一なのです。私は農学部7号館A棟というビルの5階教授室におりましたが、もしかすると、水戸光圀さんがお殿様として仕事(たとえば、大日本史の編纂事業)していた時の執務室と私の研究室とは、同じ場所だったのかも知れません。
 もう1件は、あの「後楽園」の名付け親が朱舜水先生だと知ったことです。つい先日も、私はプロ野球の巨人・広島戦を観戦してきたばかりなのですが、その時はこれを知りませんでした。東京ドームに隣接する「後楽園」という名は、「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」という意味で名づけたそうです。立派な価値観です。もっとも、楽しみを先行させるのは庶民の特権であり、お殿様はあとで楽しみなさい、という教えなので、ほっとしていますが・・・。
 何はともあれ、身近な事項でありながら長年知らなかったことを、ある偶然で知ることになる、そんな喜びは無限にありそうです。協働の町づくりを目指すもりや市民大学でも、守谷の「知らなかった」をたくさん掘り起し、その知識をエネルギーにして新しい町づくりに生かそうとしています。「守谷を知る」というコース名は、そんなところから命名されました。

9月の学長ブログ

  9月10日、鬼怒川上流で大雨が降り、常総市で堤防が決壊しました。常総市25km^2の住宅地と農地が浸水被害を受け、今日の時点で15人の行方不明者が出ています。もりや市民大学では、市内の町内会、自治会、自主防災組織の団体向けに募集した特別企画講座「地域固有の防災マップを作ろう」を、9月1日に開講したところですが、幸か不幸か、今回の企画講座は、今現在発生した洪水災害のような事態に対処するために、是非とも必要とされるプログラムとなった次第です。
 それはそうと、災害の恐怖を思い、また、自分の命を守る避難行動のとり方を身に着けておくことの重要性が、今回も大きな教訓として残されることになります。「今まで生きてきて、こんな体験は初めてです」と語る高齢者が多いのも気になります。どうやら、50年に1度とか100年に1度ぐらいしか発生しない災害、だけでなく、場合によっては1000年に1度の災害への覚悟も求められるかもしれません。東日本大震災は、そういう規模でした。
 「災害は忘れたころにやってくる」「転ばぬ先の杖」など、防災ことわざは、必ずしも多くありません。むしろ「とにかく逃げろ」とか、「家に戻ろうとするな」などの体験談が多く耳に残ります。防災行動は、なかなかパターン化しにくい事項なのでしょう。何があるかわからない、といった印象が正しいかもしれません。
 守谷市は、下総上位面という海岸段丘上に位置し、標高20m~30mで、周辺地形と比べて5mほど高くなっています。良く「守谷の斜面林」が自慢の種になりますが、これは利根川対岸の野田市、柏市あたりより標高が高いため、同じ利根川河川敷から住宅地までの標高差が平均的に長くなり、斜面林の厚さが勝ることになるからです。守谷市は、地盤が比較的固く、標高も比較的高いことによって、地震や洪水などの災害に対して多少の安心感を持って住める場所です。ただし、守谷市内で、もとが水田のような低地部分を宅地化したところでは、標高が高いとは言えないところがあります。災害は、必ず起こる、という想定のもとで防災意識を高めることが必要と、つくづく思わされる鬼怒川氾濫です。

8月の学長ブログ

  8月6日、9日、15日は、日本人にとって忘れてはならない日々です。過去の歴史をどう記憶し、今現在の自分の感覚にどう取り込むか、世代ごとにそれは異なるのでしょう。私の場合、1947年生まれなので、1945年の出来事を自分の体験として記憶することは、当然ながらできません。本で読んだり、資料館を訪ねたり、映像を見たり、人の話を聞いたり、といった積み重ねで記憶を形成しています。
 いま、冲方丁著「光圀伝」(角川文庫)を読んでいますが、テレビで放映していた水戸黄門様とはえらい違いでびっくり仰天しています。また、マリーモニク・ロバン著「モンサント」(作品社)という分厚い本も読んでいますが、PCBやダイオキシンやベトナム枯葉剤など、過去の断片的な記憶がこのような巨大企業の歴史の中でつながっていたと知ることも驚きの連続です。ジョナサン・ハー著「シビル・アクションーある水道汚染訴訟―」(新潮文庫 上・下)は全米批評家賞最優秀ノンフィクション賞受賞作ですが、これとそっくりの地下水汚染問題が、今、宇都宮市でも起きていることを環境新聞の記事で読み、未解決の環境問題がまだまだ多いことを知りました。
 それにしても、記憶というのは曖昧で不正確なものだと、つくづくそう思います。個人レベルの記憶が曖昧であることは、特に年齢が高くなると避けられなくなりますが、社会の記憶が曖昧であっては困ります。社会の記憶はできる限り正しく残され、後世に伝えられなければなりません。特に、歴史認識は、いま日本と世界が向き合うために、どうしても避けることができない問題になっています。
 正しい社会の記憶を残す道は、詳細な記述、記録に頼らざるを得ません。したがって、資料、記録、報告書の類はとても重要ですし、それらを吟味したうえで能力ある作家によって記述されるノンフィクション小説も大切です。暑い夏、冷房の効いた図書館や室内で読書するのも、避暑の一つですね。