学長ブログ

3月の学長ブログ

 牧野富太郎はNHK朝ドラ「らんまん」ですっかり有名になりました。牧野富太郎著、日本植物図鑑(1940年初版出版)は、今でも読者層をつかんでいます。ところで、実は、もうひとり気になる人物がいます。牧野富太郎より10年ぐらい後に東大理学部の助手として採用されていた地理学者、東木龍七(とうぎりゅうしち)という人です。福岡県出身、師範学校の卒業生で、小学校教諭を経て上京、東大助手になりました。やはり学歴の壁などがあったようです。

 

 この方は、地理学・地質学の優れた研究者です。特に関東地方の貝塚を「巡検」という地道な調査方法によって詳しく調べ、貝塚の存在地点を地図上にプロットし、これを繋いだ複雑な地形分布曲線を描き出しました。そして、この貝塚分布曲線は、当時の海岸線と平行しているに違いない、と考察し、その結果、大胆にも「縄文海進」と呼ばれる過去の海岸線を浮き彫りにしました。今から6千年~7千年前の縄文時代、海面は現在より5~7m高かった、というのです。そうでなければ広範囲に広がる貝塚分布の理由を説明できない、と結論しました。この説は支持され、今では定説となっています。

 

 彼は、守谷方面にも「巡検」に来たようです。今の守谷市のあたりで3点の貝塚を地図上にプロットしています。しかし、その後、守谷近傍の貝塚3点を実際に再確認した報告は見当たりません。幻の貝塚、と呼んでも差し支えないでしょう。ところで、私は、最近、偶然の出会いにより、「もしかしたらこれか?」と思われる3か所の貝塚を発見、または確認しました。

 

 幸い、4月14日(日)に市民公開講座「貝塚が語る守谷の土と水」というお話をする機会を得ました。そこで、守谷近傍の3つの貝塚をどのようにして「発見」したのか、そしてその貝塚は、現在の我々の生活とどのように関連しているか、述べてみたいと思います。1件目の貝塚については昨年の市民大学講義でお話しました。2件目の貝塚については市民大学とは別の組織に依頼されて、初めてご披露しました。そして3件目は・・・、いや、公開講座でお話ししましょう。それは意外な「場所」にあったのです。