学長ブログ

4月の学長ブログ

 この3月23日、もりや市民大学の公開講座が開催され、東京大学名誉教授の阿部啓子先生をお迎えし、「健康寿命を伸ばす食生活の創出」と題する講演を頂きました。私たちの日常生活に直結する話題を科学技術の最先端から紹介いただき、大好評を得ました。講演後のアンケート調査自由記載欄は、とても良かった、聞いて良かった、と賞賛の嵐でした。

 私も講演を聞きながら、いろいろ考えさせられました。まず驚いたのは、それまで抱いていた「未病」の勘違いでした。良く、「自分は薬を飲んでいるので大丈夫」と言う方を見かけます。薬を飲んで平常値を維持していれば「未病」の状態かと思っていましたが、阿部先生の定義では、健康な人と半健康な人は「未病」であるが、治療薬を常用している状態はすでに「未病」から外れているとのこと。自分に甘かったかな、と反省しました。また、保健機能食品について、消費者庁から生活習慣病の一次予防に役立つと認められた「特定保健用食品(トクホ)」と、事業者が消費者庁に届出すれば良い「機能性表示食品」との見分け方を教えて頂きました。消費者庁許可マーク(あの万歳マークです)が入っているのが許可された食品だそうです。その他、日本固有の発酵食品が脳機能活性化に良いこと、咀嚼(噛むこと)が脳の血流を増やし、血圧低下作用もあること、など、たくさんの「目からうろこ」を教えて頂きました。

 最も記憶に残ったのは、健康寿命を伸ばすために3つの柱がある、という指摘でした。その3つとは、正しく栄養を取ること、運動を主とする身体運動を欠かさないこと、趣味やボランティアなど社会活動へ参加すること、です。さらに補足事項があります。食事は「孤食」を避け、できるだけ人と一緒に食事することが健康寿命につながるとのこと。もっと印象的だったのは、3つの柱の中で運動だけは続けているが社会活動には参加していない人と、ボランティア活動などの社会活動だけはやっているが運動はやっていない人との健康寿命を比較すると、明らかに後者の方が長い、という調査結果でした。運動さえやっていれば健康、と信じていた人にはショックだったと思います。

 そのほか、たくさんのヒントを頂きましたが、何よりも、この公開講座に参加してワイワイ議論することも健康寿命を伸ばす大事な生活スタイルであるとのお話に会場がワッと湧き上がったのが面白かったです。「孤食」を避ける意味で講座終了後に仲間同士で食事会をすることも大事だったでしょう。そういえば、この講座終了後に市民大学友の会の総会と懇親会がありましたが、講演の趣旨が良く生かされたと思います。友の会の皆さん、健康寿命が伸びましたよ。阿部先生、貴重なお話、誠にありがとうございました。

3月の学長ブログ

 この季節、花粉症対策が必須です。「今年は早めに薬を飲み始めたので大丈夫です」「毎年1回注射してもらい、これで症状は抑えられます」「何だかぐしょぐしょして、目もかゆいです」「昨夜は苦しくて眠れなかったので、すぐに医者に行きました」など、様々な体験談を耳にします。

 私もかなりの重傷患者でして、毎年ジルテックという薬を就寝前に飲んでいます。が、あまり効果が無く、毎晩鼻づまりで苦しんでいます。鼻の奥が塞がるだけでなく、喉の奥まで狭くなってしまい、呼吸困難を感じたことも何度もあります。副鼻腔炎の手術を受けたこともあります。医者から処方された目薬、鼻スプレーは、症状をやや緩和してくれますが、期待したほどの即効効果は得られません。

 最近は、物理的対処法を信頼しています。まず、家中に掃除機をかけます。机や棚などの埃を拭き取ります。寝室の枕回りや布団に埃取りのローラーをかけます。外から帰宅したときは上着の埃を振り払い、場合によっては自分の服や頭髪を濡れタオルで拭き取ったりします。各部屋に空気清浄器は欠かせません。トイレで目がチクチクするのは、恐らく換気装置の働きで室外から空気を吸い込み、トイレ室内で花粉が床や棚に舞い降りているのだと思います。これを拭い取ると効果を感じます。以上、要するに花粉を物理的に排除することが最も効果をあげると信じるようになりました。

 不思議なのは、外出して好きなこと(スポーツや散歩)をしているときにはあまり花粉症の症状に苦しまないのに、家に帰ってくつろぐと症状が強く出ることです。この点につき、妻は「好きなことをしている時は苦しまないの?」と言って、理解に苦しむと申しております。さて、花粉症は、心理的要因が働くのでしょうか?物理的処置が最も効果的なのでしょうか?薬に頼れば大丈夫なのでしょうか?注射がお勧めでしょうか?、食生活の改善が必要でしょうか?多分議論は尽きません。杉の平均寿命は約2000年とか、まだまだスギ花粉アレルギーの話題は続きます。あと2000年お待ち下さい。解決して見せます。

2月の学長ブログ

  植物の発芽や生育は、不思議です。土の中からいつの間にか小さな芽が出てきて、日に日に成長し、やがて枝や葉を伸ばしたうえ、花を咲かせたり実をつけたりして、たとえばスナップエンドウであれば、取っては食べ、取っては食べ、それでも次の日に行くと新しい実がなっています。

 あるいは、室内のゴムの木。大学の研究室で長年付き合ってくれたゴムの木を処分した際、葉っぱ数枚をつけた小枝を1本だけリュックサックに入れて持ち帰り、物置に転がっていた鉢に植えて土をかぶせ、水をやって放置しておきました。すると、どれだけの日数だったか忘れましたが、ある日、どう見ても「生きてるな」という感じの立ち姿に気づきました。それから注意してみると、にょきにょきと成長し、いつの間にか葉っぱが茂り、1m以上の高さに成長しました。これでは大きすぎる、ということで葉っぱを適宜処分し、てっぺんを切り取って背を低くしました。その後、再び枝や葉を伸ばし、今では立派なゴムの木として室内に鎮座しています。根もしっかり再生しました。

 徳富蘆花という作家、ご存じですか?「不如帰(ほととぎす)」を書いた明治の小説家です。この本を映画化したものは、18本を数えるほどに流行りました。徳富蘆花さんは、その後トルストイに会って感化され、「土と共に生きること」を学んだと伝えられています。その徳富蘆花さんが、「みみずのたはこと」というエッセイ集を書いています。岩波文庫でこれも108版を数えるほどのベストセラーでした。そのエッセイの中の1つに「農」が含まれています。そこに土のことが書いてありました。人は土の上に生まれ、土の生むものを食うて生き、而して死んで土になるから、人は「土の化物」に過ぎない、そして、「土の化物」に一番適当した仕事は、土に働くことであらねばならぬ、あらゆる生活の方法の中、尤もよきものを捉えらみ得た物(原文通り)は農である、と断じました。

 ああそうか、大事なのは植物の生命を支えている土なのだな、と理解する次第です。「土は大切だ」ということは、言葉では理解しますが実感を伴う理解はとても難しいものです。アメリカの有機栽培農家の男性が自分の畑の土を「I love it」と言い切ったのを見たことがあります。自分の作った土に惚れた、ということです。なかなかそこまでの実感を持つことはできませんが、土の中から生まれる生命を見ると、良いものだな、という実感はわきます。土の大切さ、土の良さを、どう表現し、どう伝えるか、実は、今でも私は模索しています。それを自分の言葉で表したいと思っています。

1月の学長ブログ

 明けましておめでとうございます。平成最後のお正月がやってきました。次の元号はずばり「平和」でいこう、いや、「金農」だ、などなど、かまびすしい次第です。それはさておき、私たちは、日本の歴史の中でも最も特異な時を生きている、という事実についてふと考えます。

 「日本史の謎は地形で解ける」と題する興味深い文庫本の中で、著者、竹村公太郎氏は、日本は特異点の中にある、と指摘しています。その特異点とは、日本の人口が歴史上のピークを迎え、そしてそれを越えてしまった瞬間を我々は生きている、ということのようです。日本の人口はいつ最高値を記録したか、ご存じですか?それは、平成20年(2008年)の1億2808万4千人です。平成30年(2018年)の人口は1億2652万9千人です。10年で155万5千人減りました。日本の歴史の中で、人口の最高値の時代に生きていることがそもそも奇跡的なことです。恐らく、「日本のピーク人口時代を生きた人間」が未来の社会科学の研究対象になることでしょう。私たちは、その研究にとって貴重なサンプルになるのです。

 で、どうしましょう。ピーク人口を過ぎて人口減少時代をいかに生き、そういう社会をどう形成するか、これは今後長く続く検討事項であり、その検討の第1歩を踏み出したのが現在の我々です。未来に向けて、いろいろな示唆を提示することが、いずれは「昔の人々の知恵」として尊重されるはずです。その際、日本が稀に見る長寿国であることも考慮する必要があります。「人口減少する長寿社会」、これをどう作るかが問われます。

 守谷市人口は67624人(2019年1月)で、去年の同時期より723人増加だそうです。守谷は「人口増加する長寿社会」ですが、いずれ人口ピークを過ぎると予測されています。守谷の「人口減少する長寿社会」も近い将来、市民大学の研究テーマになることでしょう。人口減少時代にはどんな計画が必要でしょうか?この問題は、いずれ起こる地球人口の減少時代の問題の先取りになるかもしれません。壮大で、かつ収拾のつかない思索で今年が始まりました。

12月の学長ブログ

 数日前の新聞投書欄に、18歳高校生の一文がありました。「若者は昔を中高年は今を学ぼう」という見出しでした。私は、これは面白い視点だな、と思いました。若者が過去に学ぶことを推奨したいのは、歴史の重要性や昔の人の知恵などに学ぶことの大切さを思うからでしょうが、私の眼を引いたのは、中高年が現在を学ぶという視点でした。文中には「昔からの固定観念を曲げようとしない中高年」、という厳しい指摘もありました。最後には「中高年の人々は昔を大切にしながらも今ある世界を学び生き」るべし、と諭されてしまいました。

 確かに、中高年にとって「今」が分かりにくくなっていると思います。たとえば、テレビをつけても知らない歌手が知らない歌を歌っている、と感じてしまいます。インターネットを開くと、AI, IoT, ICT, SNS, ・・・などと略号が溢れていて、何が何だか分からなくなってきた、もうついていけない、と考えてしまいます。そう、中高年者は「固定観念を曲げようとしない」のかもしれません。さて、これをどうしましょう?

 実は、2020年までに日本の小中学校教育も大きな変化を予定しています。まず、小学5年生から英語を教科化する、そして、小中学校全生徒にタブレット端末を渡し、タブレット教育を実現するよう推奨することになっています。しかも、守谷市ではタブレット教育を2019年から前倒しで実現する方向で準備していると聞きます。現代の若者だけでなく、孫世代の教育が、ますます中高年者の体験からかけ離れていくのです。

 そこで、もりや市民大学でもオープンコースで守谷のプログラミング教育の実態を学ぼうではないか、という検討を始めました。まさに、中高年が「今」に学ぶ、を実践しようという訳です。この件は、守谷の新しい教育に地域住民を巻き込むという方向にも繋がります。何が起きているか分からないままに世代交代が進むのか、それとも中高年者が固定観念にこだわらないで若者と可能な協働の道を作るのか、といった選択でもあります。もりや市民大学は、当初の設置目的に照らして、市と住民の協働によるまちづくりを目指しますが、小中学校教育の今からも学ぼうという検討が始まったことをご報告する次第です。